2011/05/12

ユッケを喰らう


今は道なき道を自らが判断して進む時代だ。巷ではユッケ自粛で騒動が起きているようだが、ユッケは危ないと情報を鵜呑みにして自粛すること自体、意味がない。ユッケ自体は、今までずっと食べ続けているものだ。早い話、この一皿は大丈夫なのか、すべて自分で判断すべきであり、誰かのお墨付きを求めて判断してゆくことは逆に困難だ。肉屋に限らず、私が働くSC内のフードコート内にある蕎麦屋は、食中毒にあった人間が私の身近に2名いる。うわさでも何名かいる。ということは食わずして、この店舗の食に対する管理は杜撰なのは十分に想像できる。私が今回、注文した一皿、この騒動の中、お客様が望むのならお出しできますと、平然と言ってのける、これは自信があるからか、余程の盆暗かどちらか。いちアルバイトスタッフが空気を読んで対応するところを見る限り、教育もなされている。値段にしても手間をかけても利益があがる値付け、食べても問題ないことは運ばれてきた皿を見て感じ取ることができるほど、見事な色艶。自分の人生で、残り何度食事をすることができるのか、人間は有限に気づいたときに、こだわりを持つようになり、必死に思考するようになる。ユッケを喰らうことは、思考停止に対しての私なりの一種のアテツケだ。ヒトが同じ方向に向かうとき、その反対側に最高の機会が眠っている。一番旨いユッケを喰らいたいなら今がその時だろう。