2008/01/03

大人の見識



阿川弘之さんの著書「大人の見識」、軽躁なる日本人へ 88歳戦争を知る世代の重く深みのある言葉であると感じた。我々日本人は日本人の良さを失いつつある。英語が話せれば素晴らしい、グローバル化、英才教育という名の下に英語教室には親子からビジネスマンまで足しげく通う日々。結果何を生み出すのか、それは己の無知を欧米諸国にさらけ出す道具となった。我々は我々のことをよく知る必要がある。そして志。この2つは温故知新という阿川さんの結びの言葉へと集束してゆく。以前読んだオックスフォード流のマナーについての本が第六章のノブレス・オブリージュとリンクしており、孔子は先日妻の祖父の書棚から拝借していたものとあわせて大陸思想について学んだときに触れていたので何度もうなずける内容でした。一番知っておくべきことは、やはり戦争のことだと思います。私の母方の祖母は従軍看護婦で、戦争を体験しており、当時の様子を子供のころから聞ける環境でした。また祖父は陸軍中野学校を卒業し情報将校として無線傍受や暗号解読などの任務についていたと聞かされています。当時のことについて書かれた本もあり、一度も会った事のない祖父の貴重な記録です。陸軍のことについては、著者が海軍であったこともあり、かなり酷評されていますが、親族が命をかけて戦い、片足を失って生きていたことを考えると胸がつまる思いでしたが、戦争を俯瞰し、様々な立場の方々の見識で物事を鋭く表現されていることについては、老文士の個人的懐古談というよりも、私達が失おうとしている日本人としての見識、大人の見識を育むことができる至宝の言霊という表現がふさわしいのではないでしょうか。

http://www.skynet-1.com/heya/nakamura01.html

http://www.geocities.jp/jisedaikenkyu/nakano-kouyuukai.htm

http://snsi-j.jp/boards/past.cgi?room=undefine&mode=find&word=%C3%E6%CC%EE%B3%D8%B9%BB&cond=AND&view=10

『留魂碑建立23周年祭』 “誠”の精神を忘れない――
 2004年4月。京都東山の霊山(りょうぜん)観音。桜の花吹雪が舞っていた。 ぽかぽか陽気の土曜日、境内の一角に自然宿でつくられた高さ2.5メートル、横幅2メートルの碑の鎮魂祭が行われていた。碑には幕末の志士吉田松陰が著した「留魂録」から採った『留魂』の二文字が彫られている。その意味するところは『魂を留め』にあるのだが、陸軍中野学校の卒業生は留魂に思いを込めて「……己を滅却して礎石たるに安んじ、名刺を棄て、悠久の大義に生くるの信念は実に茲ここに淵源す。我等中野に学びて特殊の軍務に服し……、此の碑に我等が志の支柱たる誠の精神を留めんとす」と碑文を刻んだ。 卒業生は、この碑文にもあるように特殊の軍務に服していた。しかし、その任務は決して終戦で終りを告げたわけではなく、戦後も戦っていた戦士がいた。それは、留魂碑の前で叩頭している老人のなかに……。 焼香は導師の読経が続くなか進んで行く。23年祭には全国各地から卒業生や遺族等200余名が集まった。今日の式典は戦場で散った仲間の慰霊と中野の精神である“誠”の精神を忘れないための儀式であった。老戦士たちはかつて中国で、満州で、南方地域で情報戦やゲリラ戦を戦ったプロの情報将校である。 筆者は式典の合間を縫って何人かの老戦士に、中野の戦後史について問うてみた。一見すると彼らは皆、好々爺である。戦後は商社マン、銀行員、事業家、教師などの職に就き、なかには陶芸家や画家の道に進んだものもいた。しかし、戦後、自らの“歴史”を語ることはほとんどなく、陸軍中野学校の遺訓ともいう“黙して語らず”を貫いてきた。 彼らは中野学校のことに触れると、背筋を伸ばし眼光鋭く別人の表情になった。そして、口をついて出てくるのは言葉ではなく、校歌の“三三壮途(わかれ)の歌”(※1)の歌詞であった。“三三”とは、陸軍中野学校の秘匿名・東部三三部隊の名称であった。声をかけた老戦士の誰一人、それこそ、黙して語らずであった。 筆者はサイレント・コマンダーのなかで一人、今年84歳になる小俣洋三を自宅のある和歌山に何度か訪ねて説得し、懇願して戦後秘話ともいうべき「GHQ潜入工作」についてインタビューする機会を得た。小俣が指定したのは留魂祭の前日であった。歴史の貴重な証言は信じられない内容であった。
(抜粋)

留魂碑をはじめて訪れたのは祖母との旅行のときでした。桜が綺麗だったのを覚えています。
それから京都に立ち寄るときには、必ず留魂碑に手を合わせにゆきます。
何度季節が過ぎても、かわらぬ想いを。