2011/03/10

過去を生きる、今を生きる、未来を生きる

過去を生きる、今を生きる、未来を生きる。

生きるということは、とても厳しく辛いことだ。世の中は不平等で、矛盾だらけでできている。だから、そのことを前提にしていないと、何で生きるのはこんなに辛いのか。ということばかりに気がとられてしまい。足の踏み場を無くすことになる。所詮この世は、あらゆる人間の思惑が複雑に絡み合いながら、あっちこっち都合の良いようにくっつけたり、離したり、ルールを作ったり抜け道を作ったり、そんなものだから、辻褄があうわけもない。そこを堂々と認めて受け止めた方が余程楽だ。

デジタル機器の普及で、今や鮮やかな画像を記録として残すことができる。もちろん動画だって簡単そのもの。私達の記憶は、デジタル機器に勝るのか、劣るのか。あの時見た綺麗な夕日を私達は脳に記憶として刻むことができるが、10年経過して、その当時のことを思い出すときの記憶と、その時デジカメに記録した画像を比較した場合、果たしてどちらが鮮明なのか。きっと美しい画像と自分の記憶に差があるはずだ。人間が脳に刻む映像はあまりにも美しすぎて、色褪せることがないどころか、時間の経過とともに、より美しくなってしまう。これが私達を過去に閉じ込めてしまう甘い誘惑なのだ。過去に生きることは、恐ろしく甘い誘惑であり、一度踏み込んでしまうと抜け出すのが難しく、今流れている時間を放棄することになりかねない。歴史に学ぶことはあっても、歴史の中を生きてはいけない。

未来を生きることはできない。明日は誰のところにもそもそも存在していない。明日になればそれは今日になるからだ。そもそも二度と目を開けることもないかもしれない。だから恐れる心配もない。

では今を生きれば良いか。これが更に難解だ。今と呼ぶ、この瞬間が既に過去に流されてゆく。つまり変化とは必然で、常に今が存在できない。これが「無常」なのだろう。無常の中で、永遠の愛を誓うことは愚としか言いようがないが、本当に素晴らしいのは、この流れてゆく一瞬、一瞬を「一期一会」と捉えて生きること。毎日誰かの良いところを見つけては、毎日誰かの為に、何か自分にできることがないか、必死に積み重ねてゆくことが、人間が幸せでいられる秘訣なのではないだろうか。これを忘れるとき、何かが崩壊してゆく。

もしも私がお坊さんで、「無常」の中で目標設定するのはどうすればよいのだろう。
全く想像の域を超えたところで、お坊さんは、生きておられるのだろうと思った瞬間だった。