2008/10/02

人間にとって所有するということ

今朝方読んだ記事で、「所有」という概念について考えさせられる内容があった。人の人生は長くても80年~100年程度、あの世へは持っていけるものなどない。家を買うか(所有する)か賃貸で過ごすかというのは、実は表層的な考え方で、実際は80年レンタルと比較しているに過ぎない。そう考えると「結婚」という仕組みは、人生のパートナー契約、残りの半生を協力して乗り切りましょうというような意味合いが強いのかもしれない。子供は何か、知識とは何か、知恵とは、そのような視点で考えると、全てがひっくり返ってゆく。子供は自分達の過去の姿を映し出す鏡で、この世を去る恐怖を和らげる鎮痛剤のようなものなのか。知恵とは、限られた期間を上手に活用できるようにするソフトのようなもの。人間にとって所有するという概念は儚いものなのかもしれない。実は所有している気持ちでいても、するすると握り締めたこぶしの隙間から砂のようにサラサラと抜け落ちて、手のひらに残るものなどなにもなく、幻想を毎日見続けているだけのことなのかもしれない。かつてユダヤの民は、定住する場所を失い、世界を流浪した。私も日本を出てからは、日本で最後を迎えるとか、定住というような感覚を失い、自分が立っている場所が、その瞬間のリアルなだけだという認識が強くなった。以前のように家を所有するという希望も、結局は所有した場所にいないのなら、所有する意味もないと感じるようになり、今朝の記事を読んで考えてみると、そもそも所有するということ自体にあまり価値を見い出せなくなった。ただモノに対しては、このように割り切れても、ヒトについては結局のところ明確な回答を見つけ出したり、明文化できなかった。つまりヒトは、家族は、子供は単純に言葉で表現できるような存在価値ではないのだろう。だからこそ価値があるのかもしれないし、そもそも価値がつけられないのかもしれない。価値をつければ、途端に陳腐になる。モノが乏しい時代からモノが豊かな時代へ移り変わり、先進国の消費構造はマスからニッチへ、多様性の時代へ、人々のモノに対する価値観も変貌をとげる、やがてモノが飽和し、より強欲に、よりおぞましい物欲が人間の心を支配し、モノを手に入れるために時間の大半を費やすことが常になり、私達は心の豊かさを失った。次の時代は、このモノが飽和した時代から、所有することの本当の意味を見い出した人間が新しい概念を世界に誕生させるのかもしれない。このトンネルを抜けたとき、先進国はモノからヒトの豊かな時代へ変貌を遂げることができる。次の時代はヒトなのだ。そう願いたい。