荷造りをしていたら、発見したIRELAND滞在記。これは1996年~1997年にIRELANDに滞在していた時に、色々な情報や、知り合った人達にMessageを書き込んでもらったり、住所を書いてもらったもので、今から13年前のことを鮮明に思い出すことができる宝物だ。
「1996年9月20日の日記より」
気が張っているせいか、この日はいつもより早く目覚めた。のんびり朝食を取る。母の出勤の時刻になり、涙ぐみながら、気を付けてねと言っていたのが今でも記憶に新しい。旧友からの電話があり、いよいよだねと言葉を交わす。トランクに荷物を詰め、家を出ようとしたとき、呼び鈴がなる、旧友が目の前に汗だくで立っていた。退屈しないようにとポケットゲームを買ってきてくれたのだ。そのままトランクを持って、駅前の蕎麦屋で最後の中華丼を食べ、旧友に見送られ、見慣れた改札口をくぐる。乗り換えの駅で、いとこに会う、全くの奇遇であった。「何処へ行くの?」「IRELAND。」そして成田に向かう電車はトランクを持った人々で埋め尽くされていった。
CX505便が離陸する、隣のシートに座っていたのが日本人だったので、だいぶ気が楽だった。成田がどんどん小さくなり、あっという間に光の粒になっていった。数時間でHongKongにつく、とうとう海外に出たと実感した。空港内で人々が頻繁に行きかうのを見て、世界は廻っていると感じた。この時点で、人生観が変わっていた。ここからCX251便でLondonへ、チベットを越える、時差の関係でいつまで経っても眠る時間が来ないが、いつのまにかぐっすり眠る。ロンドンヒースローについて隣の人とお別れをして、空港内をうろつく、たった一人になって初めて???マークが点滅した。ゲートについて、後輩から貰ったお守りがないことに気付くが諦めるしかなかった。そこからMD123便で一路IRELANDへ、雲海が目に眩しかった。しばらくすると緑の大地が広がりはじめる、ここが夢の大地IRELANDであるとしっかり確認しつつ、ふと自分の背後を振り向いて暫く眺めていたのが懐かしい…。
メモっぽく書いていたので、改めて読むと読みにくいけど、なぜか新鮮。そして無鉄砲…。
2010/02/09
IRELAND滞在記
ラベル: 旅
2009/07/08
香港島散策(赤柱&淺水灣)
ラベル: 旅
2008/03/02
友の国スイス
アイルランドに滞在していたときに隣のお部屋にステイしていたスイスの友人ローリー。長期滞在するために語学学校に籍を置き、知り合った友人もスイスから来た人々が多かった。それから3年後バックパックを背負ってヨーロッパを放浪していた時に訪れたスイスは大雪で真っ白だった。ブリュッセルでストにはまり、足止めを食らっていたが、ようやくストが終わって列車に乗り込むときの不安はいつでも同じだ。次の国で生きられるか。生きるとは雨風、寒さを凌げるかと食事だとつくづく感じた。そして身の安全ぐらいだろう。死んでしまっては雨風、寒さなんてどうでもよくなるが、寒さで死ぬことも餓死することも同様に避けたかった。事前で電話して待ち合わせたが、何分見知らぬ国の見知らぬ駅。懐かしい顔に安堵した。異国の地で友人が助けてくれるというのは本当に心強いものだ。彼の家はシュイーツという場所で、非常にのどか、のどかというならスイス自体がのどかだ。彼の弟と幼馴染には、アイルランドで一緒に酒を飲んだことがあるので面識はあった。何がエキサイティングかと言えば日本人がいない(正確には一度も会わなかったし見掛けもしなかった)この土地で、日本人の私が彼らのコミュニティ、ライフスタイル、風土、文化に溶け込んでいることだ。彼のブラスバンドの地域コミュニティに参加し演奏を聞かせてもらった。その夜の夜空に見えたミルキーウェイは最高に綺麗だった。雪山に木製のそりを担いでゴンドラで山頂へ、そこから二人一組で足だけでコントロールしながら下まで一気に滑り降り、イエーガマイザーという薬草臭い酒で暖を取ったり、彼らのいきつけのパブで、なんでもかんでも話して夜を過ごしたりもした。ローリーの幼馴染のバンドの演奏があったときも、その飲み屋へ連れて行ってもらったり、クリスマスマーケットやローリーの悪友達のホームパーティにも参加させてもらった。ハイジの国スイス、素朴さがとても素敵な国だ。最後にローリーは郵便局に勤めていて、私がアイルランドにいるときに仲の良かったイザベルという女の子は、実はローリーの上司(局長)の娘さんだという恐るべきつながりがある(笑)これは後日談。旅は人を成長させるし、人と人をつなぐ素敵なものだ。可愛い子には旅をさせよ可愛い子ほど旅に出せ、旅をさせても死なないマッチョに教育はすべきだけど。そこから先は自分で切り開かせるしか方法はない。
ラベル: 旅
2008/01/29
2007/12/25
サンタクロース
クリスマスと言えばサンタクロース、サンタクロースと聞くと思い出すのはオランダのアムステルダムに滞在していたときに宿で出会った日本人が、サンタクロースマニアで色々な話を聞かせてくれたことを思い出す。サンタクロースの語源、聖ニコラス、記憶を辿ると現地語でジンタクラーゼと教えてくれた。と思う。アムステルダムにはサンタ博物館もあり、夜な夜なその話題で盛り上がっていた。よく耳にする俗説、サンタクロースが赤と白の服をまとっているのはコカコーラのプロモーションから広まったというのは事実かどうか疑わしいらしいが、ジンタクラーゼは黒い妖精を引き連れて、赤と白の服は着ていなかったらしい。クリスマスと言えば、アイルランドのゴールウェイに滞在していたころのアットホームなパーティが忘れられない。クリスマスのプレゼントをホストファザーとマザーは事前にダブリンで買い物をしてきて、屋根裏へ隠す。子供達が寝静まったころ、僕らは1階へ集結して暖炉に砂を撒き散らし、トナカイのひづめの跡を付けて、プレゼントをツリーの下へ、子供達が用意してくれた飲み物とお菓子をパクッと食べてまた寝床へ戻る。素敵なクリスマスでした。私もこれから10年近くはサンタクロースのお手伝いをしなくてはいけなくなり、ちょっと嬉しい気分です。今年は自分の子供が登場する絵本とローディの水色をプレゼントしました。来年からはちゃんと靴下ぶらさげてね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9
ラベル: 旅
2007/11/18
オーロラ博士
前回は、オスロまでの話であったと思います。冬期の北欧はユースホステルが閉鎖されているため、一部の割高なホテルしかないので滞在する方は十分注意が必要ですという教訓。そこから毎晩のように夜行を駆使した泊まらない旅を繰り返した中で、面白い方と出会った。「オーロラ」というとアラスカのイメージが強いが実はスカンジナビア半島をどんどん北上すると、そこでもオーロラを見ることができるそうだ。そして列車で出会った老人は、このオーロラ観測を仕事にしている方で、その晩は短い時間であったが色々な話が聴けた。オーロラの観測所へ遊びにおいでと博士からお誘い頂いたが、いかんせん遥か北で南下しないと生死に関わるので後戻りできないなと後ろ髪ひかれながら、旅を進めました。その晩、窓から見える雪原が今でも脳裏にやきついています。オーロラ博士、いつか参りますよ。この後スウェーデンからデンマークへ南下することで初めて宿で寝泊りすることができた。今の社会ではネットカフェ難民から路上生活者へと転落する若者が話題になっていますが、暖かい寝床、雨風をしのげる屋根、食事、衣料など当たり前のものが揃っていて私達は満足に考えたり、志を持ったりできるものなんです。だから簡単に路上生活者にやる気がないとか、堕落している人間だとか言うことはできないと思います。真冬に野宿した経験のある方がどれだけいるでしょうか。現実、路上生活という環境は、人間の希望や志を根こそぎ奪ってしまう、そのような背景もよく考える必要があると思います。デンマークに入る列車の中でITの若者、おばあちゃん、おっかさんと向かい合いの席だったのですが、腹ペコだった私におばあちゃんが差し出してくれたリンゴや飲み物と、暖かい言葉は忘れられないな「遠い異国の地で私の孫が同じように苦しんでいたら、誰かに助けてもらいたい。だから私は貴方を助けてあげたいと思うんですよ。」なんて素晴らしい言葉でしょうか。今でもお年寄りを見ると何か自分にできることはないかと思うのは、その時示して頂いた生き方が強烈に心と体に染み込んでいるんだと思います。そしていつもその時のことを思い出します。
ラベル: 旅
2007/11/15
ムンクの叫び

ご存知「ムンクの叫び」
ヴィーゲラン公園
再び、わたしの旅の備忘録。
1998年ヨーロッパ一周の旅のスタートは第2の故郷「アイルランド」からであった。そこから南下してウォーターフォードなどを回った後、ダブリンからスコットランドのエジンバラへ(ここの話はまたいつか)そこから南下してニューキャッスルという町にあるノースシールズという港から国際船に乗り込んで、ノルウェーを目指した。ちなみに船に弱い私は終始、船酔い気味。ラウンジでバーボンをあおって酔っ払っていると脳みそを錯覚させてなんとか乗り切りました。この船で知り合ったアメリカ人のマイケルとスウェーデンの青年(彼も船酔い)と意気投合しラウンジでお互いの国のことを話したりしていました。夜は狭い4人1室の部屋で船の底から聞こえる海の音を聞きながら映画「タイタニック」のことを考えながら眠りにつきました。真冬だったので沈没したら間違いなくこの映画と同じで凍え死ぬなぁなんて思っていた記憶があります。ノルウェーのベルゲンに深夜到着した船から下りるとそこは厳しい寒さ、オレンジ色のライトが港を照らしていました。予約など入れていない私は早速宿を探そうとしましたが、迂闊にも冬の北欧はユースホステルという旅行者向けの安宿は閉鎖されており、これまたこの寒さのなかで、途方に暮れるはめとなりました。そこに船で道中を共にしたマイケルが声を掛けてくれたのです。そして地元のお友達が知り合いのところに電話をかけてくれました。予約で一杯だったのですが、ちゃんと1室確保してもらい無事にその夜を過ごすことができました。マイケルありがとう。衝撃だったのは朝目覚めると真っ暗。天気が悪いのかな?と思い外を見てみると暗い星空、変だと思い時計をみても10時ぐらいだったと思う。少しずつではあるが夜が明け始めていた。日照時間が冬は短いのだ。逆に夏は日照時間が長い。白夜というのを昔何かで読んだことがあったので、こういうところなのだと肌で感じることができた。この日は直ぐに準備を整え外出、オスロへ向かう電車や宿を電話で確認したが、案の定、宿はなく仕方ないので夜行列車でつなぐ作戦に切り替えた。方針が決まれば後は、この町、この国のことを知ろうと思い、ひたすら歩き続けた。人もあまりいない山道をテクテク登り続けて山頂へあがったら遠くにフィヨルドが見える。ブーツの底にはシャリシャリと霜が降りた土。ここで倒れても誰も見つけてくれなそうだなと思いながら写真を1枚撮った。やがて2時には太陽は傾き、寒さも厳しくなってきた。印象的だったのは公園で座っていたらベンチの片隅から飛び出してきた野良ねこが鳩をしとめて食べていたこと。この環境で生きることがやっとなんだとつくづく感じました。とにかく寒かったな。深夜になって夜行列車に乗り込んだ私だが、寝台と呼べるような設備ではなく、棺桶の幅の板の上にただ横になる程度というような状態で、真夜中に寒さで何度も起きて流れる景色を見つめていました。明日はどうなるのだろうか。
早朝列車はオスロに到着。
案の定、宿はないので今日も割り切って列車を手配(笑)正確には高級ホテルはあるのだが、料金が半端ではないので泊まれないということも原因ではあった。真っ先に足を運んだのは121体の人間が重なり合って作られた塔である。この作者は、この作品について何もコメントしていないがゆえに受け手の我々がいくらでも好きなように解釈できる。この国の気候のせいなのか、生きることへの執着心を感じずにはいられなかった。この旅では重かったのだが、折りたたみ自転車を持参していたので、通常の旅人よりははるかにフットワークが軽く、どこでもすいすい行ってしまえたところがベストプラクティスだと思います(最後はスイスの友人にプレゼントしてきました)そして「ムンクの叫び」があるムンク美術館へ足を運びました。ムンクの作品は若き頃の作品は非常に物をリアルに書く人なんだと「ムンクの叫び」からは想像しなかった作品に驚きました。それがなぜそうなったのかは彼の生い立ちが物語っていました。そして「ムンクの叫び」を見つめながら思ったことは、この国の人々は生に対する執着心、生きることが当たり前の私達ですが、生きることで精一杯の人たちが感じる心を映し出した色づかいなのだと私なりに解釈しました。これは私がここ数日体験したことからも痛烈に感じたこととリンクするからかもしれませんが。
そして日没。
私の旅は続くのでした。
ラベル: 旅
2007/10/27
ベネチア案内人
ヨーロッパを一周したときにベネチアに1週間ほど滞在しました。なんでベネチアかと言うと「ジョジョの奇妙な冒険」という漫画を中学生ぐらいの時に読んで物凄く影響を受けたのが動機で欧州は右回転で回ろうぐらいにしか考えていなかったので、ふと足を運んでみました。その前の国がスイスで大雪でしたので、イタリアの暖かい気候はちょっと感動しました。それまでは、北欧とか比較的北を回っていたので、とにかくコートで寝ていても底冷えして命の危険を感じていましたから、ベネチアの空気の暖かさにはびっくりでした。とはいっても寒いんですよ。あくまで北欧やスイスの山の上と比較しての話です。べネチアの水の色はエメラルドグリーン、丁度わたしが到着した日は雨が降っていて、海の色がヒスイのように雨とぶつかって音を立てていたのを記憶しています。ベネチアの交通手段はバポレットという水上バスで色とナンバーで行き先やどこ経由か分かれており、車は走れません。運河に橋が架かっていてヒトがあるけるぐらいしかない幅がほとんどなので、必然的に車はここに進入できない。よって交通手段は水上バスです。よく皆さんが東京ディズニーシーなんかで乗っているゴンドラは観光客メインのもので、地元の人々はそんなの使いません。建物もジャングルのように建てられており、空が見えないんです。だからよく道に迷ってしまうんですが、実は家をよく見ると家に行き先がペインティングされているので主要な場所は簡単にたどり着けます。これは意外に知らないひとが多いみたいです。気づいちゃいました。ベネチアのルーツ、元々はトルチェッラ島に人々は住んでいたようですが、そこから埋め立てを行い現在のベネチアに移り住んできたようです。そのとき、そこで使っていた石材や木などをせっせと運んで土台を作ったわけなんですが、それが原因で地盤沈下を起こして結構危ういみたいです、地元の方がおっしゃっておりました。その手前にはムラーノ島とブラーノ島があり、ガラス細工(ベネチアガラス)の職人達が集まって工場をかまえている島と一般の方が住んでいるカラフルな島になっています。カラフルな家がなんであんなにカラフルかを地元のひとに訪ねたんですが、昔からですと言ってました。単に目立ちたがりなのか?そして世界的に有名な謝肉祭が開かれるこのベネチアですが、ベネチアマスクはご存知でしょうか。昔カジノに出入りできるのは特別階級の方達だけだったそうですが、身分を隠して潜り込むためにマスクをしたとかしないとか、色々なエピソードがつきない島ですね。また万博の跡地があるのですが、このパビリオンが世界の有名な建築家が手がけたものが多く建築家達にとっては宝の山みたいなものらしいです。かなり危ない雰囲気でトイレには薬を打った注射器などが捨てられており荒廃しておりますが、それでも見事な建物ばかりなので建築系のひとは一見の価値ありです。ダリの博物館があったり、そんな楽しい島での出来事をいくつか、そもそもベネチアに着いたのはクリスマス前なんですが、クリスマスは店も宿も全てが営業ストップするという恐怖があったので、安宿のマスターに頼み込んで連泊させて頂きました。これがまた過酷で、ユースホステルという安宿にはたまに共有キッチンがついていないところがあり、ここはまさにキッチンなし。キッチンなしということは自炊できないので、単純にランチもディナーも割高になるということ。ここのディナーはパスタやら何やら温かくて旨そうなものばかり、わたしはお金もない貧乏バックパック旅行のため、近所のスーパーで火を使わないで食べられるものをたくさん買い求めてクリスマスを乗り切れるようにロッカーにストックしていました。そのラインナップはサーディンの缶詰、硬くてまずい安いパン、ハム、チーズ、なんと日本円で100円ぐらいの1リットルのテーブルワインパック白と赤たくさん。皆おいしそうに食べてましたね。わたしはいつも固いパンとサーディンの缶詰に激安ワイン、しかもこれ2日目になると蓋の粘着部分が弱くパチッと留めるプラスチックのところが取れてしまう(笑)粘着力がたまたま弱くて売り物になったのは、ポストイットですが、ワインの蓋ぐらいイタリア人なんとかしてくださいと思ったものでした。この宿にしばらく滞在していたのですが、面白いことにずっといると入れ替わり立ち代り旅人が来るわけで(当たり前)ローマから流れてきたり色々な経路を通ってベネチアを通過していく人間模様を感じることができた。たまに日本人が声を掛けてくることがありました。毎日缶詰食べているべネチア案内人がここの宿にいるから行ってみなとお勧めをしたようで、何度か声を掛けて頂きました。ベネチア案内人と呼ばれるぐらい土地には詳しくなっていたんです。なんせ疲労骨折するぐらい毎日12時間以上ベネチアを隅々まで歩き回り情報収集しておりました。ベネチアマスクの店は全部見ましたし、お店で美味しい所とか(安くてうまい)簡単な歴史、近道、裏道、バポレットの効率的な乗り方、そしてこの宿のお隣の「レストランイグアナ」について、文字通りイグアナがいる店でカウンターの椅子が馬の鞍なんです、わたしはカウボーイになりたくてアイルランドにファームステイしに行ったほどなのでこれは相当お気に入りでした。そんな魅力いっぱいのベネチアで本当に色々な人と出会い、その中でも印象的だったのは、皮の貿易をやっている方、サラリーマンで長期休暇を一人旅している方、交通事故で車が横転して木に激突して生きていた方(実はうちの子の名前はこの人の名前と全く同じ)クリスマスのベネチアはゴンドラに仮装したサンタがたくさん乗っかり大騒ぎします。素敵な町でした。
最後にあの宿の未だに解けない謎はトイレに便座がなかったこと。
便器のみ座るところなし、蓋もなし、大はどうするのがイタリア流なのか?
それとも儀式、壊れた、経費節約、未だにモヤモヤしてます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%81%E3%82%A2
(ベネチア詳細)
旅は人を成長させます。
命さえ落とさなければ、我が子も未知の世界へ強制投入したいものです。
ジョジョに出てくる吸血鬼⇒インタビューウィズバンパイア⇒フランスのカタコンブ(地下墓地)という繋がりで実はパリのカタコンブ(最近ホラー映画になっていますが)にも立ち寄りました。
戦時下では、爆撃から身を守るために潜んでいたこともあるようですが、なんとも地下深くに取り残されるのではないか、二度と太陽を拝めないのではないかと恐怖を覚えました。機会があれば体感してみてください。
ラベル: 旅
2007/10/03
生と死
最近感じていること、それは両親の老いである。
昨晩、妻とお酒を飲みながら、話を聞いてみたのだが、ある日を境に知っている誰かがいなくなる。
この世から存在がなくなるということに、一体僕達はどれだけ耐えられるのか。
喪主になる日が絶対にやってくる、縁起でもないが、これは生を受けたその日から付きまとう宿命である。私達は確実に滅びへと向かっているというのが全人類に平等に与えられたことのうちの1つ。
もう1つは時間である。これぐらいではないだろうか平等なものなんて。
特に自立してから、親と顔を合わせる機会なんて極わずかになり、久々に会うと尚更実感してしまう。
それは親にとっても同じで子供の成長と老いをお互いに感じているのではないだろうか。
自分の子供が寝ているときに寝顔を見つめていると、彼はこれから世界を背負っていかなくてはならない世代になるんだと感じてしまう。
いつまで自分は彼のそばで力添えをしてやることができるのか?そんな事すら頭をよぎる。
時間の流れは容赦なく、私達を入れ替えていく。
愛する者たちが去って行った後、いずれ愛する者たちを残して自分も去る。
どうやって、この現実を受け入れようか、散り際を考える。
ラベル: 旅
1998年12月30日人生で一番長かった日
昨晩、妻と久々にロゼワインを飲みながら色々な話をした中で思い出したことの中に、人生で一番長かった日がある。
それは1998年12月30日から年明けまでのひと綴りの体験だった。
1998年12月30日、私は南フランスのリゾート地であるニースにバックパックを担いでたたずんでいた。初めて見る地中海の海の青さに興奮していたが、事態はよくなかった。
私の目的地はニースではなく、スペインのバロセルナであったからである。そのために地中海の海岸沿いをヒッチハイクで移動しようという無謀な行動を取っていた。
金も少ないし、腹も空いていたから選択肢が少なかった。
とりあえずマルセイユを目指して親指を立てていたが、一向に車はつかまらない。
ヒッチハイクはアイルランドにいた時によくやっていたので、抵抗はなかったが、ヒッチハイクで乗せてくれる人は少々難ありの人が多いのは事実である。
私の前に一台のオンボロ車が停まってくれた。彼曰く、フランスではヒッチハイクをやっても乗せてくれるひとは少ないというかいないらしい。
その理由は治安、見知らぬ人間を車に招き入れるほど、安全ではないし、臆病だということだ。
そして彼と意気投合した結果、彼は私にランチをご馳走してくれると言ってくれた(危ないなぁと感じつつ)早朝で空腹であった私は彼のご好意に甘えることにしてみた。
彼が彼と住んでいるフラットに案内してくれた。彼が会話中にルームメイトを「彼」と言ったのに私はピンと来ていたが、彼は同性愛者である。
恋人がいるのに見知らぬ東洋人をどうこうするなんて考えにくいし、話してみた彼の性格から悪人ではないなと踏んだんです。
そして彼の彼も帰ってきて、ランチになったんですが、昼からオーブン使って肉を焼いたり、なんとコース料理が出てきました。
前菜からはじまってメインまで、そして車の中でワインの話をしたんですが、彼の愛するロゼワインまでテーブルに並びました(結構高級な品と思う)
話はお互いの国のことについて、和気藹々のムードで(非常に緊張感は持っていましたが)、時間は過ぎていきました。時計を見るともう16時を回っている。
彼は泊まっていっていいと言ってくれましたが、私の中で、かの有名な注文の多い料理店のお話が頭を巡っておりましたので、有難く辞退しましたが、その後の彼の反応はややドライに、これはもしかしたら正解であったのかもしれません。
こうしてニースから車で郊外の田舎町に移動してしまい。そこで放り出され徒歩で電車の駅を夕方から探す羽目になりました。
イタリアのベネチアで歩き回って疲労骨折していた足が痛かった。
とっぷりと日が暮れて、田舎の駅でスペイン行きの夜行列車のチケットを入手して、ベンチで座って待っていると頬に傷のある若者がひとり私の前を通過、しばらくすると先程の若者が、もうひとり友達を連れて私の前を通過、夜行列車で田舎駅には私以外ひとはいない、嫌な雰囲気だと感じた。
そしてまた頬に傷のある若者が歩いてきた。またひとり増えている。
またひとりまたひとり、私が座っているベンチの向かいにもベンチがあり、頬に傷のある若者が座った順に合計5人、前3人、私に左隣に私の大きなバックパックを挟んで2人横に腰掛けた。
異常な雰囲気である。
私がバックを開けるふりをして横を覗き込んだ瞬間、隣に座っていた男の右手がジャケットの内側にある大きなアーミーナイフにいっているのが飛び込んできた(見えていた映像がスローモーションになっていた)次の瞬間にはバッグを盾にして5人が一斉に立ち上がって私を包囲しようとしたのを突破して一目散に人がいるタクシー乗り場まで逃げてきた。
人生で初めて死の恐怖を感じた瞬間であった。
タクシーの叔父さんたちに事情を説明し、近くの交番を教えてもらおうとしたが、タクシーの叔父さんはご丁寧に自分が説教してやると意気込んで駅まで歩いていった。
おかげさまで彼らは散っていったように見えたが、こっそり遠くからこちらの様子をうかがっているのが見えていたので、私は駅のホームが見える直線上でタクシー乗り場の辺りから、ずっと電車が来るのを見守っていた。
銀河鉄道999に飛び乗る哲郎の気持ちってこんなかな、電車に乗れないと結構やばい、走って飛び乗れるのかも心配だしなぁなんて思いながらじっと待っていた。
電車が来た!猛烈にダッシュして飛び乗ると、そこにも異様な光景が(苦笑)
あたり一面マリファナの煙だらけで車内が真っ白に霞んでいる上に通路も歩くのが困難なくらい人が溢れている。
「オーバーブッキング」を思い知らされた瞬間、私の指定席に10人ぐらいいたかもしれない(笑)
極めつけはこの電車の前半分はポルトガル行き、後ろ半分がスペイン行きであり、それに気づいたのは確か深夜2時ぐらい(既に12/31)、狭い通路で眠るに眠れない体育座りをコンパクトにした状態で長時間缶詰にされた、突然の車内アナウンスで人が動き始めたため確認すると、そういうことだった。
慌てて私も移動開始、そこで珍しい人物に出会った、それは1ヶ月半ぐらい前にベルギーのブリュッセルの安宿で出会ったポルトガル人が奇遇にも椅子に座っていたのだ。
お互い汚い挨拶を教えあっていたので、そこでも驚きとともに汚い挨拶をしてお別れをした30秒ほどの出来事だった。
彼が「スペイン行きはこっちじゃねぇ後ろだぁあばよ!くそったれ」と叫んでいたのが忘れられない。
そして夜が明けた。
大晦日のスペイン、バロセルナ。
朝から宿探しに明け暮れた。
瓶詰めのオリーブをおやつにしながらウロウロと町中を歩き回った。
文字通り全ての宿にコンタクトをしてみたのだが、三ツ星ホテルにいたるまで、全て満室である。
大晦日は新年を祝う人たちで大賑わいとなり、宿なんてありゃしないらしい。
いい教訓になった。
途方に暮れた私は、バックパックや貴重品など全てを駅のロッカーに入れて、手ぶら、小銭少々、それにビニール袋に食料をもって公園のベンチに寝転んで空を見上げていた。
寝不足であったし、精神的にも疲れていたし、今日もよく歩きまわったもんだ。
ふと冷たいものが顔に、雨が降ってきた。
神様がいるのなら、どうしてここまで追い詰めるのかと文句がいいたい気分だったが、このままではずぶぬれになる。
そこで国立公園内に潜り込んで木を探した。
ハックルベリーはご存知だろうか。木の上に住んでいたアイツが私の中での次のアイデアだった。
木の下なら傘代わりになるし濡れないし強盗などから身を守るには誰もいない木の上が一番と考えたからだ。
これは警備員に見つかり失敗に終わる(笑)あたかも観光客が迷い込んだフリをしてフニクラはどこですか?なんて質問をしたが内心クソッたれと思っていた。
万策尽きた瞬間だった。
次第に強くなる雨をまだ営業しているお店の屋根越しに眺めながら静かに野宿か、数日間(三賀日)は眠らずにいる覚悟を決めようとしていた。
そのとき閃いた!ここはバロセルナだから満室なのではないか?すぐに電話を取って比較的近郊だけど田舎町のホテルにかけまくった。
発見した。空き部屋がタラゴナという町にある。
予約を取るとすぐさま駅へ引き返し、ロッカーからバックパックを取り出し、電車に駆け乗る。
時間的にも深夜に町に到着することは危険だし、雨もどしゃぶりになりつつあった。
暗い景色を電車から眺めていると走馬灯のように今日1日の出来事が窓に映って流れていった。
タラゴナには黄金海岸がありちょっとしたリゾート地、コロッセオがあったり小さな町だが、正月を過ごすのには十分であった。
街路樹がバレンシアオレンジなのがなんとも素敵な気候なんだなと感じさせた。
一生忘れない、一番長かった1日はこうして幕を下ろそうとしていた。
テレビではユーロ導入のニュースが流れ、人々は新年を祝うために町に繰り出して大騒ぎをしている。
今やそのユーロはドルに変わってキーキャレンシーとしての世界での存在感を増すばかり。
ロゼワインを見ると思い出すあの日の自分。
ラベル: 旅
2007/09/06
雨と風
台風が近づいている。
台風が近づいているときの空は明るいような暗いような独特な空をしている。
雨が降っているときの匂いをかぐとアイルランドを思い出す。
アイルランドの気候は丁度、こんな感じなのだ。
風はビュービュー、晴れていたと思ったら突然曇って雨が降り出す。
傘を持っていた記憶がない。
それは風が強いから傘をさすのがままならないからである。
当時はポンチョみたいなものをミリタリーショップで買って羽織っていたし、テンガロンハットをかぶって雨風を凌いでいた。
アイルランドと言えば、1980年代から驚異的な経済成長を遂げて、国民所得は8倍に膨れ上がった。
私が滞在していたのは、96年から97年あたりで、確かに若者にはエネルギーが溢れていたし、習い事や仕事もたくさんあって、活気に満ち溢れていた記憶がある。
それから10年が経過し、アイルランドは転換期になっている。移民問題や犯罪の増加だ。
当時は週末になるとクラスメイトとヒッチハイクをしながらアイルランドを周遊していたのだが、今やそんなことは遠い昔話になってしまったのかもしれない。
私の第二の故郷アイルランド、みんなの生活はどう変化したのだろうか。
最後に訪れたのは、98年のハロウィンの日。
サプライズでホストファミリーの家に転がり込んだのだが、わざわざ部屋をあけてくれて1週間ほどゴールウェイの町を楽しんだ記憶がある。
もう9年も経ってしまったんだな。
空を見上げながらそんなことを考えた。
ラベル: 旅
2007/08/28
ポーの研究
面白い記事があって、つい興味をそそられて調べてみました。
http://www.tez.com/blog/archives/000975.html
「ポー」の研究?(笑)
この方、休暇で飛行機に乗ってポーランド上空を通過したとき、奥様と上空から見下ろしたポーランドがあまりにもずっと同じ茶色いストライプ模様が続いていることから、ポーランドはポーな大地だからポーランドなのかしら的なコメントをしていらっしゃいます。
ちょっと吹き出してしまいましたが、ポーなランドでポーランドのポーの正体がなんだろうと気になりましたので、調査開始。
ポーランドは、ヨーロッパの中央部に位置し、面積は日本の約5分の4の大きさで、その大部分はなだらかな平原が広がる恵まれた国土となっている。ポーランドの語源となる"ポーレ"とは、平原という意味だからポーランドであり、ポーなランドは正しかった(笑)
農業は
ポーランドの農業は第二次世界大戦によって壊滅的な被害を受けた。農地の1/3が失われたことはもちろん、豚の5/6、牛と羊の2/3が殺されている。
さらに主要な農産地が戦後、ソ連の領土となったため、農業の集団化政策を通じて復興した経緯がある。
ポーランドは21世紀の現在も農業国である。国土面積のうち、農地の占める面積は42.1% (2003年、以下、United Nations Statistical Yearbook 2002による)に達し、農業従事者は407万人である。ただし、労働力人口に占める農業の比率は、1948年時点の53.5%に比べ、1991年には26.7%まで低下している。
国土が温帯と冷帯の境界に位置すること、降水量が少ないことを反映して、麦類の栽培が盛んである。中でもライ麦の生産は世界第2位(336万トン、シェア21.7%)、えん麦は世界第5位(131万トン、5.5%)に達する。
つまり農業大国。
鉱業
ポーランドは鉱物資源に恵まれた国である。石炭を中心とした有機鉱物資源、亜鉛、銅、鉛といった重要な非鉄金属が豊富なことが特徴である。
有機鉱物資源では、世界シェア第7位(2.8%)の石炭(1.0億トン、2002年)と、燃料などに用いる亜炭(同7位、6.5%、5955万トン)が豊富である。可採埋蔵量は石炭203億トン、亜炭19億トンであり、枯渇の心配もない。ヨーロッパではロシアに次いで石炭が豊富である。少量ではあるが、原油(77万トン)、天然ガス(162千兆ジュール)も採取されている。
金属鉱物資源では、世界第8位 (6.0%) の銀鉱(1200トン)、同9位 (3.7%) の銅鉱(50万トン)、同9位 (1.8%) の鉛鉱(5.3万トン)、同10位 (1.8%) の亜鉛鉱(15万トン)のほか、金とマグネシウム鉱を産出する。
そのほかの鉱物資源としては、イオウ(122万トン、世界シェア2.1%)と岩塩(420万トン、世界シェア2.0%)を採掘する。岩塩の採掘孔はヴィエリチュカ岩塩鉱(マウォポルスカ県)など観光資源としても活用されている。
土の色は、このような影響を受けているらしい。
だからあんな大地みたいです。
ということでスッキリしました。
追記)
私でもポーランドで知っていることがありました。それはバーテン時代に知ったのですが、スピリタスというウォッカでアルコール度が確か97%ぐらいある強烈なお酒です。通常スピリッツという酒は、例えばジン、ウォッカ、ラム、ブランデー、ウィスキー、テキーラなどは40%そこそこですが、それの倍以上というのは、ほとんどエタノールをダイレクトで飲んでいるような物(笑)
私の知人に半アル中状態で、入院した方がどうしてもアルコールが飲みたくて院内にある医療用エタノールを飲んだツワモノがおりますが、メタノールだと失明するので飲む機会があったら注意してください。
またよくテキーラは強いとか、ウィスキーはやばいとかアルコール度に差があるような表現を使う方が多いのですが、アルコール度で言うと大差はありませんが、スピリタスだけは倍あるので注意してください。
ダブルストレートで2杯一気すると体の構造がわかります。興味がある方は是非トライ。この文章の意味を理解するにはやってみるしかないですがオススメはしません(笑)
ラベル: 旅
