2007/11/15

ムンクの叫び


ご存知「ムンクの叫び」


ヴィーゲラン公園

再び、わたしの旅の備忘録。

1998年ヨーロッパ一周の旅のスタートは第2の故郷「アイルランド」からであった。そこから南下してウォーターフォードなどを回った後、ダブリンからスコットランドのエジンバラへ(ここの話はまたいつか)そこから南下してニューキャッスルという町にあるノースシールズという港から国際船に乗り込んで、ノルウェーを目指した。ちなみに船に弱い私は終始、船酔い気味。ラウンジでバーボンをあおって酔っ払っていると脳みそを錯覚させてなんとか乗り切りました。この船で知り合ったアメリカ人のマイケルとスウェーデンの青年(彼も船酔い)と意気投合しラウンジでお互いの国のことを話したりしていました。夜は狭い4人1室の部屋で船の底から聞こえる海の音を聞きながら映画「タイタニック」のことを考えながら眠りにつきました。真冬だったので沈没したら間違いなくこの映画と同じで凍え死ぬなぁなんて思っていた記憶があります。ノルウェーのベルゲンに深夜到着した船から下りるとそこは厳しい寒さ、オレンジ色のライトが港を照らしていました。予約など入れていない私は早速宿を探そうとしましたが、迂闊にも冬の北欧はユースホステルという旅行者向けの安宿は閉鎖されており、これまたこの寒さのなかで、途方に暮れるはめとなりました。そこに船で道中を共にしたマイケルが声を掛けてくれたのです。そして地元のお友達が知り合いのところに電話をかけてくれました。予約で一杯だったのですが、ちゃんと1室確保してもらい無事にその夜を過ごすことができました。マイケルありがとう。衝撃だったのは朝目覚めると真っ暗。天気が悪いのかな?と思い外を見てみると暗い星空、変だと思い時計をみても10時ぐらいだったと思う。少しずつではあるが夜が明け始めていた。日照時間が冬は短いのだ。逆に夏は日照時間が長い。白夜というのを昔何かで読んだことがあったので、こういうところなのだと肌で感じることができた。この日は直ぐに準備を整え外出、オスロへ向かう電車や宿を電話で確認したが、案の定、宿はなく仕方ないので夜行列車でつなぐ作戦に切り替えた。方針が決まれば後は、この町、この国のことを知ろうと思い、ひたすら歩き続けた。人もあまりいない山道をテクテク登り続けて山頂へあがったら遠くにフィヨルドが見える。ブーツの底にはシャリシャリと霜が降りた土。ここで倒れても誰も見つけてくれなそうだなと思いながら写真を1枚撮った。やがて2時には太陽は傾き、寒さも厳しくなってきた。印象的だったのは公園で座っていたらベンチの片隅から飛び出してきた野良ねこが鳩をしとめて食べていたこと。この環境で生きることがやっとなんだとつくづく感じました。とにかく寒かったな。深夜になって夜行列車に乗り込んだ私だが、寝台と呼べるような設備ではなく、棺桶の幅の板の上にただ横になる程度というような状態で、真夜中に寒さで何度も起きて流れる景色を見つめていました。明日はどうなるのだろうか。

早朝列車はオスロに到着。

案の定、宿はないので今日も割り切って列車を手配(笑)正確には高級ホテルはあるのだが、料金が半端ではないので泊まれないということも原因ではあった。真っ先に足を運んだのは121体の人間が重なり合って作られた塔である。この作者は、この作品について何もコメントしていないがゆえに受け手の我々がいくらでも好きなように解釈できる。この国の気候のせいなのか、生きることへの執着心を感じずにはいられなかった。この旅では重かったのだが、折りたたみ自転車を持参していたので、通常の旅人よりははるかにフットワークが軽く、どこでもすいすい行ってしまえたところがベストプラクティスだと思います(最後はスイスの友人にプレゼントしてきました)そして「ムンクの叫び」があるムンク美術館へ足を運びました。ムンクの作品は若き頃の作品は非常に物をリアルに書く人なんだと「ムンクの叫び」からは想像しなかった作品に驚きました。それがなぜそうなったのかは彼の生い立ちが物語っていました。そして「ムンクの叫び」を見つめながら思ったことは、この国の人々は生に対する執着心、生きることが当たり前の私達ですが、生きることで精一杯の人たちが感じる心を映し出した色づかいなのだと私なりに解釈しました。これは私がここ数日体験したことからも痛烈に感じたこととリンクするからかもしれませんが。

そして日没。
私の旅は続くのでした。