少し前の記事になるが、今日改めて読んで、感じたこと。
オリンピックを前にした中国が、古い建物を立て壊し、更地にし、建設中の建物に覆いをかぶせて、工事中の土地などには高い壁を作り、オリンピックの広告をデカデカとアピールしている状況を見て、北京市民の口から出た言葉が印象的であった。
人間が、自分を等身大より、より良く見せようするのは自然なことだと思う。しかしあまりに、ありのままの自分からかけ離れると、やがて破滅へ向かってしまうのだろう。少しぐらい背伸びしたことなら誰にでもあることだろうと思うが、極端はいけない。このような戒めはとても大切にしなければならない。いつでも、華美に飾ることなく自然体を心がけたいものだ。良き夫婦というものは、そこらへんがうまくなっているのではないか。等身大を認め合える相手は、かけがえのない存在である。まるで隋の煬帝の「絲綢裹樹」
「いくらなんでもやりすぎだし、意味のないことにお金を使いすぎだと思うね。
まるで随の煬帝の『絲綢裹樹』の故事にそっくりだよ」煬帝(ようだい)は
隋王朝(紀元581~618年)の二代目皇帝で、日本の聖徳太子が遣隋使に
託して「日出ずる処の天子…」で始まる親書を送った相手として有名だ。
隋の初代文帝は、後漢の滅亡後に分裂した中国を再統一し、強大な帝国を
築いた。ところが、それを受け継いだ煬帝は、大運河の建設や度重なる戦争
に膨大な国富と民力を浪費した。その結果、各地で民衆の反乱が相次ぎ、
隋は建国からわずか37年で滅びてしまった。
「絲綢裹樹」とは、そんな煬帝の浪費ぶりを伝えるエピソードの1つだ。
煬帝は隋の都、長安(現在の西安)にやってくる外国の使節団に自国の繁栄
ぶりを見せつけるため、使節団が通る道沿いの木々を美しい絹の布で飾った。
ところが、これを見たある外国の使節は、煬帝に対してこう上奏した。
「貴国には着る物にもこと欠く貧しい人々がいるのに、
ぜいたくな絹の衣をなぜ木々に着せるのですか」(抜粋)