2011/07/21

英語を社内公用語にしてはいけない3つの理由


津田幸男さん著、英語を社内公用語にしてはいけない3つの理由。英語を社内公用語にした会社に勤めるだけに気になっていた本であったので、対極の意見はどのようなものか知りたい好奇心に駆られて購入した1冊。自分の考えを強化するような本よりも反対意見に耳を傾ける方が視点も増えるので、とても良い機会になった。読めばわかるが、一方的な見解で、非常に憤慨するようなところも多々あるが、実は志の点で言えば親和性も非常に高く、ベクトルも殆ど同じ方向であることがわかった。著者は言葉を重んじる立場にある方なので、公用語の定義から入るので、私が実際に英語を社内公用語にした会社で働く中で、認識しているところと的がズレているために、つまり「英語の社内公用語化」という言葉が独り歩きして誤解を生んでいるように感じる。早い話がコミュニケーションエラーである。但し殆どの人は、この誤解の状態のようなメッセージを受け取るために、著者の指摘するようなことに少なからず影響を与える可能性もあるだろう。

p4率直に言って私には「英語信仰」はない、英語を話せることがカッコイイとも思わないし、英語ができるから偉いなんて思わない。ましてや日本語が劣るとか、英語よりも魅力がないなんて滅相もない。むしろ日本を離れ異国の地で苦労したり、英語を学ぶことを通して、日本語の大切さや日本文化の素晴らしさを再認識する機会が増えた。もっと突っ込んで話せば、私の祖父は陸軍の情報将校であった。他国の言語の理解と暗号解読は国を守るために絶対に必要な生きるための手段であった。そのような背景もあり、英語を含め他言語と向き合うときの動機は著者が言うような浅い感覚ではない。更には英語圏から情報を盗み出してやるぐらいの意識はあるし、日本の良さや会社で言えば企業理念を相手の母国語で伝えて、理解して行動を変化させようという気概だ。だから私は相手の国の文化や歴史、人を知り、言葉を知るという著者が考えるような道具ではなく権利に結びつけた言語観に基づいて、敬意を払って学んでいる。

p39確かにあらゆることが急速に変化しており、会社を支えてきた「叩き上げ」の人々にとっては、英語社内公用語という言葉が自分と会社の向かう方向の歯車を合わせようとしたときに、1つの障害になりえることは理解できる。但し私も正真正銘「叩き上げ」だが、「叩き上がる」苦労を考えれば、この困難を乗り越えられる忍耐力や努力をできることも「叩き上げ」の強みなのだから、一概に記憶力が良い、指示されたことを要領良くやれるだけのスマートさと競争しても何ら恐れることはないと思っている。第一言葉が通じたところで、中身がなければ意味もない。言葉で伝えるより、無言でやって見せた方が理解もしやすい。活躍の場が無くなる理由はない。あるとすれば当の本人が諦めた時だけだろう。

p98そもそもこの世は「平等」ではない。「格差」もあることを前提とすべき。耳障りの良い非現実的なところを繰り返し刷り込んで淡い幻想を抱かせる方が罪だと思う。不平等社会で理不尽なルールや押し付け、私利私欲や恨み、妬みが溢れかえっているし、格差がないことなど絶対にない。仕組みとして存在もしているし、個人の生き方によっても存在する。当たり前だが、毎日努力もせず、その日暮しの人間と真理を追究しようとする人間、この不平等社会を少しでも良くし、機会平等だけは実現させようと取り組む人間に格差がないわけがない。むしろあるべきだし、英語格差も同様だと考える。ここで取り上げられている英語圏での「異なる英語」、精密コードと制限コードは興味深かった。

p159英語を公用語とした会社の人々には、「公」の精神が欠如しているという決め付けは非常に腹立たしかった。相手のことをよく知りもしないで軽々しく発言すること自体、言葉に重きを置く人がすべきでないと思う。そのような表現が節々で見えるのがとても残念。そのまま最後の締めくくりに目を向けてゆくと、日本の伝統文化を世界の人々に伝えてゆくのですとある。世界の人々にどうやって伝えるのだろうか、日本語で?

世界の人々に伝えてゆくのです。に続くどうやってが欠落している。
これが経営者との決定的な差なのだろうと思う極めつけの言葉だった。
そのHowの部分を我々が「実行」しているわけだ。